平家ファミリー

豪傑・平清盛とその一族をご紹介します。

現在16名
平清盛平時忠(清盛の義弟)二位ノ尼(清盛の妻)建礼門院徳子(清盛の娘)
清盛の息子たち…重盛宗盛知盛重衡
清盛の孫たち…安徳天皇維盛資盛知章
清盛の弟たち…忠度
清盛の甥たち…教経経正敦盛

平清盛たいらのきよもり
平清盛 栄華をきわめた一代男
享年64(1118〜1181)
桓武平氏嫡流
(白河上皇の落胤とも)/生母:祗園女御かその妹
通称:六波羅殿 六波羅入道 平禅門 平相国/法名:浄海
役職:肥後・安芸守 内大臣 太政大臣 従一位

代々の財力をベースに保元・平治の乱の功績を経て平家の一大政権を樹立した偉大な男。が、対抗勢力をことごとく討ち、強欲、驕慢なふるまいが多かったため、因果応報か、熱病にかかって悶え苦しみながら壮絶な死をとげた。そんな悪人イメージばかりが先行する彼だが、工事の人柱制度を「意味がない」と廃止したり、雨乞いの成果を「たまたま雨の降る時期が来ていただけ」と見抜いたり、世の観念にとらわれない斬新で合理的な処断のできる人物でもある。そして身内に甘く、女に弱く、敵に対しても幼い者は助ける(頼朝、義経)など、人情もなかなか厚かったと思われる。

平時忠たいらのときただ
無敵平家の名コピーライター
享年63(1127〜1189)
桓武平氏(貴族平氏)
・葛原親王の長子高棟王の後裔
姉時子は清盛の正室/妹滋子(建春門院)は後白河法皇の寵妃
通称:平関白

役職:権大納言
「平家にあらずんば人にあらず」という名文句?を放った張本人。婚姻関係を利用して強大な権力をふるう。とりわけ政治手腕に長けているが、若かりし検非違使時代には強盗12人の右腕を切って獄門にかけるなど、武人の側面もあるにはある。壇ノ浦後に生け捕られ、秘蔵の娘を九郎義経に差し出して保身をはかるが、結局能登に配流されてその地で没した。

二位ノ尼にいのあま
清盛よりコワイ?気丈な未亡人
享年61?(1125、6〜1185)
桓武平氏(貴族平氏)

滋子、時忠の姉/清盛の正室/宗盛、知盛、重衡、徳子らの母
本名:時子/通称:二位ノ尼 二位殿
役職:従二位

久安(1145〜50年)のはじめ頃に清盛の正室となり彼とともに平家の栄華を謳歌した。清盛出家につきあって尼となり、清盛亡き後は新棟梁宗盛の後見として何かと苦労した。源平最終合戦の壇ノ浦では、孫にあたる安徳天皇を抱いて入水(無理心中では…)。夫清盛に負けるとも劣らぬ気概に満ちた女性であった。

建礼門院徳子けんれいもんいんとくこ
建礼門院徳子 スキャンダラスな清盛の娘
享年59(1155〜1213)※没年1223年説など諸説あり
清盛の次女

十七歳で高倉天皇(当時十一歳)の女御となり、二十四歳で安徳天皇を生んだ。しかし政略結婚であったため夫と反りが合わず、また、夫の父にあたる後白河とおのれの父である清盛、両者の確執にも心を痛めていた。源平最終合戦の壇ノ浦では皆にならって入水したものの源氏勢に救われて都に戻り、出家して大原寂光院にて一族の菩提を弔うために余生を投じた。そんな彼女には、壇ノ浦後、敵将九郎義経とデキちゃったとか、実兄宗盛と近親相姦の関係にあったとか、高貴な立場の女性にしては(だからこそ?)下世話なスキャンダルが妙に多い。

※清盛の息子たち※
平重盛たいらのしげもり
信心深い説教息子
享年42(1138〜1179)
清盛の長子
/生母:右近将監高階基章の娘
通称:小松内府 燈籠大臣
役職:右近衛大将内大臣

「平家物語」では悪人清盛をいさめる温厚な善人長男。しかし息子資盛が関白基房と悶着を起こした際には相手方が謝罪しているにもかかわらず仕返しをするなど、聖人君子にしてはどうかと思われる逸話も残っている(このエピソードはドラマや小説ではたいてい清盛のしわざに置き換えてある)。源平合戦に加わることなく、病のため父より早く死去した。

平宗盛たいらのむねもり
平宗盛 のらりくらりと腰抜け大将
享年39(1147〜1185)
清盛の三男
/生母:時子(二位ノ尼)
役職:八嶋内大臣 遠江・淡路・美作守

清盛亡きあと平家の棟梁の座を継いだがおよそ武人としては臆病な人柄で、戦はもっぱら知盛に任せていた。壇ノ浦では入水を思い切れず部下に突き落とされ海面を泳ぎ回っていたところを九郎義経の郎党伊勢三郎に捕らえられた。捕虜として鎌倉に曳きゆかれ頼朝と対面した際も、ビクついた所作ふるまいが物笑いの種となった。その帰途、都を目前にした近江国篠原宿にて息子ともども斬首された(義経は自分の戦功と引き換えにしても彼を救ってやろうとあれこれ奔走していたのだが…)。能無しダメ男にはちがいないが、家庭人としてはひじょうに愛情深い「いいひと」だったのだ、とこれをかばう向きもある。

平知盛たいらのとももり
平知盛 平家を背負うクールな知将
享年34(1152〜1185)
清盛の四男
/生母:時子(二位ノ尼)
通称:新中納言 従二位

公家化=弱体化した平家にあって武勇に長けた貴重な人材。頼りない兄宗盛を補佐し、軍を指揮し、よく勝利をおさめた。九郎義経に対抗しうる唯一の好敵手だったが、力及ばず壇ノ浦合戦にて敗北を喫し、「見るべきものは見た」とクールにつぶやいて潔く海に身を投じた(浮かび上がらぬように鎧を二領重ね着して)。その際にも、敵にあざ笑われぬよう船内を清掃し、泣き喚く女房らには「そう嘆かずとも今後は東国武者が相手してくれるさ」とブラックジョークをかました。超然とした態度がなんとも小気味よい男。

平重衝たいらのしげひら
平重衝

捕虜となれども気高き名将
享年29?(1156、7〜1185)
清盛の五男
/生母:時子(二位ノ尼)
通称:本三位中将
役職:左近衛権中将 従三位 尾張守

武略に優れた良将。源頼政を宇治川に討ち、南都征伐でも成果をあげる…が、その際東大寺や興福寺を焼いてしまったため僧らの恨みを買った。のち一ノ谷合戦で捕虜となり鎌倉に護送されるが、その堂々とした、また風雅なふるまいは頼朝を感心させた。しかし壇ノ浦合戦で平家が滅ぶとその処分を保留のままにしてはおけなくなり、身柄を南都に引き渡された。彼を憎む南都側は当然彼を極刑に処した。その際、鎌倉でのカノジョ千寿はためらいなくその後を追って自害した。ほかにも健気な奥さんがいたし、相当女性にもてた人だったみたい。


※清盛の孫たち※
安徳天皇あんとくてんのう←皇室ファミリーの項で紹介

平維盛たいらのこれもり
平維盛 美貌も乱世にゃ役立たず
享年27?(1158?〜1184)
重盛の長男(清盛の孫)
/妻:藤原成親の娘/子:六代
通称:楊梅(ようばい)少将
役職:権亮三位中将 従四位下 /法名:静円 浄円

清盛直系の孫。その美貌は「光源氏のよう」とオナゴ衆をうっとりさせた。ところが戦をさせるとまるで無能のお坊ちゃん。富士川合戦では水鳥の羽音にビックリして戦わずして逃げ、倶利伽羅峠合戦では牛の大群に追われてボロ負け。立て続けの醜態に身内に甘い清盛も「もう都に戻ってくんな」とキレた。嫡流としての維盛のプライドは大いに傷ついたにちがいない。父重盛を早くに失い、一門の中で肩身の狭い思いをしていたのかも知れない。一ノ谷合戦後、京に残してきた妻子に会うため屋島から単身ひそかに都に戻り、そののち高野山で出家。だがほどなく那智沖にて入水自殺をとげた。平和な時代ならいざ知らず、源平争乱の中ではどうしてもネガティヴな生き方しか選べなかった哀れな美青年。

平資盛たいらのすけもり
悲恋の似合う美少年
享年25(1161〜1185)※1158出生説も
重盛の次男(清盛の孫・維盛の弟)

役職:右近衛中将 従三位

通称:小松中将(少将) 新三位中将
十歳の頃、鷹狩の帰途で藤原基房に礼を失したために暴行を受け(…たのはたぶん郎党衆だろうが)、それに父重盛が報復するという「殿下乗合事件」を引き起こした。兄維盛と同じくたいへんな美男子で、後白河法皇の寵愛を受け、建礼門院右京太夫とも恋仲になった、が、源平合戦のため別れざるを得なくなる。三草山合戦では義経軍に夜襲をかけられてパニクり一ノ谷の陣営に加わることも敵の接近を伝えることもせず猛スピードで屋島に逃げていってしまった。壇ノ浦にて弟有盛とともに入水して果てた。

平知章たいらのともあきら
父を救った孝行息子…でも早死には親不孝
享年16(1169〜1184)
知盛の長男
/生母:八条院(鳥羽天皇皇女)の女房、治部郷局
役職:左馬頭武蔵守 従五位上

一ノ谷合戦にて父知盛とともに海上に逃れようとしたところを源氏軍児玉党の襲撃に遭い、父を逃すため単身踏みとどまって戦い討死した。この時はさすがの冷静な知盛も無力なわが身を呪い、ひどく悲しんだという。

※清盛の弟たち※
平忠度たいらのただのり
平忠度 お歯黒に泣いた武将歌人
享年41(1144〜1184)
清盛の末弟
/生母:鳥羽院女房(丹後守為忠の娘とも)
通称:薩摩守
役職:左兵衛佐 正四位下

紀州は熊野出身の文武に長けた勇将。源頼政を宇治川に討ち園城寺征伐にも参陣、頼朝挙兵にあたっては副将軍として東国に赴いた。墨俣川では勝利するが、続く木曽戦では大敗を喫する。藤原俊成を師と仰ぎ、自作の歌を彼に託して一族とともに都落ちした。一ノ谷合戦、明石で敵勢に囲まれた際、源氏武者のふりをして切り抜けようとしたが、お歯黒をしていたため平家方だと見抜かれて、奮戦の末腕を切り落とされ、ついに討たれた。ところで「さつまのもり(忠度の別称)」と言えば、ひと昔前までは無賃乗車の代名詞として有名だった(忠度=ただのり=タダ乗り)。

※清盛の甥たち※
平教経たいらののりつね
平教経 義経追っかけどこまでも
享年26(1160〜1185)
清盛の弟教盛(門脇宰相)の次男

兄:通盛(一ノ谷で戦死、妻の小宰相は後追い自殺)/弟:業盛(一ノ谷で戦死)
役職:能登守

弓術に優れた平家きっての猛将。一ノ谷では敗北したが、そののち瀬戸内方面における六度の対源氏戦でことごとく勝利。ただし謹慎中だった源氏の九郎義経が再び出てきた屋島合戦以降は、教経個人のはたらきはめざましいものの(義経の郎党佐藤継信を射殺するなど)、平家は敗れる一方。それでも闘志は衰えず、壇ノ浦では勝敗が明らかになってもなお義経を追いかけた。義経が八艘飛びで逃げてしまうと、そのへんの強そうな敵兵を両脇に抱えて強引に入水した。最後の最後まで武人としての意地を通した男気あふれる青年だった。

平経正たいらのつねまさ
平経正 戦場に散る琵琶リスト
享年?(1145、50〜1184)
清盛の弟経盛の長男

弟:経俊 敦盛
役職:皇后宮亮 淡路・丹後・但馬守 正四位下

仁和寺の覚性法親王の稚児として琵琶や詩歌を習得し、琵琶の名器「青山」を師より賜った。平家一門都落ちの際、危険を冒してその琵琶を仁和寺に返上しに戻った。そののち一ノ谷合戦において河越小太郎重房の手勢に討ち取られてしまった。

平敦盛たいらのあつもり
平敦盛 悲哀を誘う青葉の笛の音
享年17(1168〜1184)
清盛の弟経盛の三男

兄:経正 経俊
役職:無官大夫 五位

横笛の名手で、戦場にあっても名笛「青葉(小枝との説も)」を身につけていた。一ノ谷合戦にて、皆とともに海上の船に逃れようとしたところを源氏の熊谷直実に呼び止められ、引き返して対戦する、があっけなく敗れた。それでも助けてやろうとする直実の慈悲にすがらず、潔く討ち取られることを選んだ。この逸話は美談としてのちのちまで芸能方面で取り上げられた。美少年だったとの設定も、物語の修飾にひと役買ったにちがいない。